2011年10月20日木曜日

失業した理由シリーズ013 ヘリカルスキャンへ戻る

本シリーズ前回は、神戸でギラギラしてないけどまぁよろしかろうという生活をしていた私のところに来た一通のeメール.そこには「ソニーに戻ってこない?」と書かれていた.

当時、ヘリカルスキャンのデバイスは 8mm videoは下火だったとはいえDVCが全盛期で、それゆえテープストレージも有望と考えられ、ソニーの研究所で開発したDDS3やそれと平行して開発されたAITも売れていて、テープストリーマ事業部の鼻息は荒かった.

それと、この時点で1998年1月、あと2年経つと、世界中のコンピュータが発狂するかもしれないとIT業界が戦慄する2000年問題がやってくる時期でもあった.まるでジョークみたいだが、1999年はテープストレージがよく売れたのだ.「2000年問題の切り札はテープ」などとセールスキャンペーンしていたんだろうなぁ.これも一種のマッチポンプw.

そんな中、事業部は社内人材募集をしていたがあまり人が集まらない.そもそも、1990年代のソニーにおいて、コンスーマデバイスが光DISKへと移行する中でテープデバイスに参入したがる者は少なかった.また、テープストリーマはOEMビジネスなのでそれも不人気な理由だった.やっぱり、自分達がデザインしたコンスーマデバイスにSONYの名をつけて世に出したいと思うのが多くのエンジニアの気持ちだった.

OEMビジネスがどんなものかというと、いろいろ厳しいのである.OEMがなんの略なのかは知らないけど、ソニーで設計製造したテープストリーマに、たとえばCompaqのネームプレートをつけてCompaqに売る.ソニーが$400で売ったテープストリーマを、Compaqは$1200で企業に売る.Compaqは天皇、ソニーは奴隷の関係になる.不良がでりゃすぐに事業部長が謝りに行くし、不良原因と再発防止策レポートを一週間以内に返さなくちゃいけないし、保証期間を3年にしてくれたら買ってやるなどと足下を見られるし、年中ゴタゴタしていて残業が多い.そういう事情が知られているので、人が集まらないし、出て行く人も少なくない.人手不足が慢性化していた.

1997年末、わたしが東京に帰省したとき、DDS3を一緒に開発したソニー社員と飲んで「退屈だよ」という話をしたのがテープストリーマ事業部の人に伝わり、わたしをソニーに引っ張る算段をしていたらしい.

もとよりソニーの給料でソニーに残留し、テープストリーマを開発し続けたかった私にとって、是非実現させたいオファーではある.しかし、非円満退社したソニーマグネスケールから横槍が入る可能性が懸念された.実際、ソニーマグネスケールの人事はそんな奴を雇うのはけしからんと横槍を入れてきていた.余計なお世話だとしかいえんわ.

お誘いメールを読んでから、う~んと5分ぐらい考えて、神戸に来てアナウンス事務所で修行中だった奥さんの都合なんか無視して、オファーに乗ることにして、メールを返信した.ソニーマグネスケールからの横槍で壊滅したらそのときは失業して職探しするわと覚悟した.

周囲の都合なんかガン無視して瞬時に決めてしまうドライなわたしである.

----
で、ひそかに上京して面接に行ったりして、HPからボーナスをしっかりもらって、1998年7月にヘリカルスキャン開発に復帰した.

わたしをソニーに引っ張ってくれたozkさんには感謝いたします.

また、たった2年で辞めてしまった平坂を温かく追い出してくれたHPの皆さんにも感謝いたします.その後神戸事業所は規模縮小されてしまったようですが、皆さん元気だろうか?

--続く--      つぎへ        前へ

人気ブログランキングへ

1 件のコメント:

  1. 事業部長が謝りに行く/不良レポート/足元見られる/残業多い/

    日常風景ですな。わたしの。

    返信削除